昭和51年10月15日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」

 見やすう信心をするがよいぞと。どういう事であろうか。昨日宮崎の、昨日研修の時に、これを読んで貰うて、まぁ研修したんですけれども。もう丁度九月の一日のお月次祭にお参りをしてきた方達ですけども。一人は仕事の方が不振だと言うので、お願いに見えた。それがここにお参りをして以来、何もかにも順調になって、大変おかげを頂いておるというのです。一人は子供さんの病気でお参りをしてきて、大変それもおかげを頂いておるという。いうなら一月じゃないですかねぇ。
 もう四十五日になる訳ですよね。振りに手紙が来ておる。その事がしかし有難いねというて話した事でした。合楽に四十五日前に、お参りをさせて頂いた。そして難儀な問題をお取次を願わして貰うた。その二人もが二人の人が、手紙を寄こしておるのが四十五日ぶりである。そしておかげを頂いて、あれ以来お仕事が順調に行っておるというお礼。一人は子供の病気が、おかげを頂いておるというお礼。そこで矢張りお参りをして、おかげを頂いたと思ったけれども。
 後はまたすっとしたというのではなくて、それ以来おかげを頂いておると言う事を、四十五日振り返ってみて、お礼の手紙を出しておられると言う事が有難いねと。お参りをしてきてすぐにおかげを頂きました、大変お世話になりましたというのなら、挨拶が混じっておると思うのです。所が五十日近くも、合楽にお参りをして、それ以来色々な事がおかげに、おかげにとおかげの展開になってきておると言う事が、有難いというのが期せずして二人の方の手紙になっておると。
 それを見てね。昨日そのここで研修する時に、これを読んで大体いうならば、あのおかげを頂いた。すぐお礼状が来たと言う様なのじゃなくて、おかげを頂いておる。その後もおかげを受けておるというお礼状であると言う事が、このいや有難い所だねと、こういう訳なんです。だからいうならば信心は、見やすいものだと言う事が分かります。お願をして、段々効果が薄うなってくる言った様なのじゃなくて。
 だんだんおかげを頂いておる。そこで今度はどうでも、またもう一遍お礼のお参りがさせて頂きたい。お礼の参拝をさせて頂きたいと言う事になってくるのですから。もうお礼参拝ぐらい見やすいものはないです。有り難い一杯で参るのですからね。これも頼まんならんこれも願わんならんから、忘れちゃならんという様な願いとは違う。そういう意味においても矢張り見やすい信心。それを氏子からわざわざ難しゅうして、日参り夜参りしてほらとても、金光様の信心ちゃ普通じゃ出来んと言った様な思い方をしながら、お参りをしたんでは矢張り難しい。
 昨日これはどうでも一つ、これも研修の時に、先生方とみんな話した事でしたけども。どうでもこれは一つどうでもこうでも、合楽の教会の皆さんが、おかげを受けると言う事は愈々今度の、御取次成就信心生活運動のいわば宣言にある、天地の道理に基づいた生き方を進め自然の生命を重んじ、自然と人間が調和する世界を求めて行くという宣言文を、そのままに、これは人間社会の上に、天地との調和神様との繋がりというものが出来てくる時にいうなら、自然の生命を重んじてと言う事は。
 天地の親神様の働きを重んじてという事であります。ここではそれを成り行きを大切にすると、こう言う事です。自然と人間が調和する社会を求めてと。この様に見やすい信心はない。この様に楽しい信心はない。神様が人間氏子の幸せのために、一生懸命に協力して下さるというか、神様が働いて下さるというか。神様が甘いものが欲しいといや、甘いもの。辛いものが欲しいといや辛いものと。勿論お金が要ると言えば、健康でありたいと願えば健康も、いうなら財の上でも。
 又は人間関係の上にでもスムーズに、おかげを下さる道があると言う事であります。だからその道を体得すると言う事であります。私は昨日なぜこりゃどうでも、合楽の人達が、そういう生き方を身につけて、おかげを頂かなければいけないなと言った事をです。こういう素晴らしい宣言文がです。それは小動物とか、植物の世界との調和に留まっていると言う事です。赤とんぼがこの頃無くなった。もう田舎にもその赤とんぼ。歌の文句にある、もう歌の文句だけにしか無いようになった。
 夕焼けこやけで、とんぼというのは、もう歌の文句だけになったとこう言う。それをそのどうして無くなったかと言うと、緑が少なくなったからだという。いうならば調和を破ったからだという。人間がさぁ高速道路を作らんならんとか。またそこを走る自動車の排気ガスによって、おかされた植物のために、小動物がいなくなったんだ。そのバランスが崩れたんだという訳です。
 ただねそれも自然の生命を重んじないからだというのです。自然と人間の調和自然というならば、赤とんぼが調和が崩れた所に、そういう難儀な事になって壊滅してしまったという訳なんです。だから私どもの人間との調和と言う事は、これは赤とんぼではない。植物ではない。もう人間と天地との調和と言う事を合楽では、言っておると言う事です。調和を崩す所に、教祖金光大神は、その事を真に説いてあるです。
 いわゆるおかげは和賀心にありと、天地書付を示しておられます様に、和らぎ喜ぶ心というのは、天地のそれ一切と調和する心なんです。だからいわば欲徳が身に付いてくる訳です。金光様の信心はこの欲徳が、愈々身に付かなければいけんのです。教祖様に佐藤四九郎という方が、金光様のご信心で一番大事な所はどこが、一番大事な所かという御質問をなさっておられますのに。何カ条か仰っておられる中に、欲徳と仰っておられます。あの欲徳は御神徳の徳です。
 欲の徳です人間は誰しも、欲を持たないものはありません。おなかがすけば食事がしたい。のどが乾けば水が飲みたい。これは欲ですけれども、それは決して我欲ではありません。当然の事なんです。だからそういう徳を受ける事が、金光教の信心のいうならば大一番の秘訣だと仰っておられます。そこでそんならそういう欲徳が、身に付いてくると言う事を教えて貰い。
 そういう道があるなら、そういう道を行じさせて貰う。そこには見やすい見やすい、いうならば天地が奏でて下さるリズムに乗って生活をして行くという生活がある。そこに嬉しい楽しい有難い、勿体ないのおかげが受けられるんだと。だから見やすいというのは先ほど申します様にね。お願をする五十日に一遍お参りをしておれば、いうならば子供の病気が治り、又はある人は商売が、それ以来ずうっと順調におかげを頂いておるとこういうのである。見やすい事である東京から参ってきたっちゃ良かぐらい。
 五十日に一遍そげんおかげ頂けるなら。だからそれもほんなら、嘘ではないと言う事。だからそういう意味においての、見やすいというのではない。ほんなら日参り夜参りさせて頂くと言う事も、そういう有難い勿体ないが、又はそういう大事な事を教えて頂く事が。それを体得する事が有難いのであり、楽しいのであるという信心になって参ります時に信心は見やすい。本当の意味において見やすいと言う事になるのです。
 いうならば楽譜を覚えて、その楽譜通りに、こう引けば、一つのリズムが生まれてくる。だから、そこんところを体得する事によってです。だから教祖様は十年と信心が続いたら、我ながらわが心を祀れと教えておられるのである。そういう稽古をしながら、確かに間違いない。この神様のお働きというものは、人間の幸福のために全力を挙げて働いておって下さる神様だと言う事が分かる。そこでその神様の御働きそのものを大事にすると言う事が、自然の生命を重んじると言う事になるのです。
 そりゃもう小動物でも植物でも。矢張り繁栄して行かなきゃなりませんけれども。ここには人間がそういう幸せになって行くと言う事は、全然体験を持たないから言えないのだ。昨日もその話をしておるうちに、先生あなたがその天地のリズムなんて仰るけれども。そんな事が今の金光教の人達で分かる筈はありませんよという先生がありました、昨日。合楽では皆さんがその、天地が奏でるそのリズムを、矢張り聞きながら生活をしておるでしょう。ここへ参ってきたら、その天地のリズムが聞こえるでしょうが。
 そこん所がです。いうならば限界になってこなければいけません。リズムを聞きとるいうならば、心を頂かなきゃならない。その心をです自然の心をキャッチする心が和賀心です。本当にそういう意味において、天地書付を基軸としてと言う事にならなければならんのです。所が中々その和賀心というのが難しい。そこでその和賀心にならせて頂く精進と言う事が必要になってくるのです。
 その和賀心というのは、表行からは生まれてこない。これはもう心行に限ると言う事になって、合楽では表行全廃、心行に取り組むと言う事ですから。心行というのは和賀心を何時も維持する修行何です。和らぎ喜ぶ心という心を、何時もこう維持して行く行を心行というのです。心行とは不平不足を言うてはならぬ。熱い寒いを言うてはならぬ。という風に教えて私は頂いております。私どもが不平不足が出ろうとする。そこに心行が要る。不平不足をもう言葉に出したらもうお終いである。
 出ろうとする所を、金光様生神金光大神様とおすがりさせて頂くと言う事なんです。言いたい事は明日言えと。どんなに腹の立つような。これは一言言うとかにゃと言った様な事でも、一日たってみなさい。もう何でもない事。ほら言わんでおって良かったと言う事になりましょうが。だから一日も抱えちゃ出来ませんからね。その場その場でね、生神金光大神様を唱えさせて頂いて、不平不足の心で、ころではない反対に、お礼を申し上げねばならんと言う事になってくる。
 そういう精進をして行く事なんです。だから本気で矢張り稽古をしようという気にならないと、話を聞いただけでは大変難しい。本気で信行させて貰うと。本気で和賀心にならせて貰おうと。はぁこれが和の心だなこれが賀の心だなと喜びの心だなと。これが和らいだ心なんだなと。その和らいだ喜んだ、それこそ毎日がお目出度うございますと、こう言いたい様な心の状態を和賀心という。そういう心が頂けれる。その心を擁護するというか、それを守って行くのが心行です。
 だから心行はもう何時もが、心の中にそれを頂いておかなければ出来んのです。だから心行は本気でその気にならなければ出来ません。けれどもそれは今日申します様に、天地の道理に基づく生き方になるのです。そういう生き方が。いろんな事が起きて参ります。けれども、それは先日から頂く、寛大の寛であります。う冠に草冠を書いてそして見ると。神の働きとみる。天地自然の働き。天地金の神様の働き。それが銘々の前に起きてくる事になるのですから。
 その働きを合掌して受けると言う事です。そこに心は愈々寛の字です。広い豊かな心が頂けます。だからおかげも愈々大きくなって参ります。皆さんはその一言一言の徳、欲が成就すると言った様な事ではありません。あれもこれもが成就するというおかげにならなければいけません。いわゆる欲徳が身に付かなければいけません。私どもが必要と思うものが、必要に応じて頂けてくる。いや思わなくっても神様の方が、先回りをしておかげを下さるのが、欲徳を身に付けた人の上に起ってくることなんです。
 それを自然と人間が調和する社会に、社会というよりも世界にと言う事でしょうね。人間と自然とが調和する世界に住む事が出来るのです。昆虫よりも植物よりも、まずは人間が助からなければならんです。ためにはその自然との大調和を生み出す働きが必要なんです。大自然のいわば働きと、調和をすると言う事は、すべての事を御事柄として受ける。すべての成り行きを、愈々神様の働きとして大事に尊ばせて頂くと言う事なんです。これだけなんです。だから見やすいでしょう。
 それが愈々身についてしもうたら、愈々見やすいです。だからそれを身に付けるまでは、私はもう心がけた上にも、心がけて行かなければ身に付きません。私はもう本部で言われておる、今度ご大祭にお参りさせて頂きまして、斎場の両サイドに大きく書かれておりましたですね。いわゆる愛を持って語って行こうというそのあれが。私はそれよりももっと根本になるものは、私はこの宣言文にあると思うです。
 所がそれが肝心要のこの宣言文は素晴らしいな。これは合楽の御理解集か何かを見てから、こら書いたっじゃろうと私は、一番初め思うたです。これを合楽で行っておる事この宣言文は。所が教団で言っておられる宣言というのは、それは昆虫やら植物の事程度にしか留まっていないと言う事です。信者の一人一人がです。本当に、天地の道理に基づく生き方を進めると言う事は、もう自然の生命を重んじると言う事なんです。神様のお心を大切にすると言う事なんです。
 それを自分の上に行じて行く所にです。そこに病気も癒えるだろう、貧乏もなくなるだろう。争いは勿論無くなるでしょう。そういう世界に住んで、始めて愛を以って語っていけれるのです。こういう生き方がるんです。こういう道があるのです。そういう意味で私は合楽に御親縁を頂いておる方達は、どうでもこの宣言文をそのままに、自分の心の上にまた自分の家庭の上に現わして行かなきゃならないと言う事です。
 そしてこの宣言文がです、そのままいわば祈願詞に、長々と詠ってあります事になってくる訳です。ここん所を頂かずしては、私は本当の事になってこないと思うです。自然と人間が調和する、これは社会を求めて。勿論そうですけれども。私はここは社会じゃない。自然と人間とが調和する世界を求めるのです。世界というのは和賀心の世界。社会じゃないです世界です。和賀心の世界にそれを求めて行く。求めて行くというよりも現わして行くと言う事が本当かも知れません。
 合楽では皆さんがですここにお参りをして見えて。ほんなら私自身がその雛型の、いうならばだんだんとおかげを頂いて、欲徳を身につけてそして、必要なものが必要に応じてこう頂けれる。必要と思わんでも神様はおかげを下さる、という働きが生まれてくるのです。そういう働きを示しながら。こういうおかげを受けられるというおかげを示しながら実意丁寧、愛を以って、人に伝えて行くと言う事になった時に、これは社会に広げて行くと言う事になります。
 先ずは自分の心の世界に頂かなきゃならない。和賀心の世界に先ずは住まわなければならない。その和賀心の世界に住む事のために、愈々心行が重んじられなければならないと言う事になります。私はこれを読ませてこれは皆さんも頂いてこられたでしょう。御本部でこれを配布しておりましたでしょう。あなたの金光教という。そこにいうならば赤とんぼやら、植物やらの、いわば( ? )これならばです、金光様の信者じゃなくってもです。あなたの金光教。
 金光教でなくても、誰でもその道理ぐらいは知っとるです。勉強すらすぐ分かる事です。どうしてこの頃赤とんぼが飛ばんごとなっただろうか。そこで科学者の人達がそれを研究したら、緑の割合が少なくなった。もう緑の割合が例えば、まぁここに数字で書いてありますけどもね。例えば五なからならんとが三になったから、もういわば赤とんぼの住む世界が無くなったという訳なんです。という原因を追及して分かった訳なんです。だからこの位な事ならば、あなたが金光教でなくてもです。
 誰でも分かる事です。自然界にはそういう不思議な不思議な働きがあるんだと言う事は、誰でも知ってもろるし分かってもおるし、話して聞かせりゃすぐ分かる。本を読んだだけでも分かる訳です。そんなもんだなと。所がその自然界と人間との調和です繋がりです。自然というのは天地の親神様のという事になります。天地の親神様と私どもとの繋がりというものがです。その天地の親神様が生かさにゃおかん。
 育てねばおかんという働きが一杯あっておる。それをまともに受け止めれる心は、教祖は和賀心と仰っておられます。だから私は思うのにね。その欲徳が段々身について参ります、その体験がです。本当に勿体ない和賀心を祀れと仰る。私は和賀心が祀れるならその欲徳が身についてきた時、時点から和賀心をまつれると言う事になると思うです。欲徳が身に付かなきゃいけません。欲は誰でもが持たない者はありません。
 所が徳がないと言う事になります。私どもが欲しいと思うものが、頂けれる働きを欲徳というのです。そのために愈々合楽で、ね。もういうならば何十年間言い続けておる所の、成り行きを愈々大事に尊ばせて貰わなければいけないと言う事。全ての事柄に神様の働きとして、御の字をつけて頂かなければいけないと言う事。どういうそれは難儀な問題であっても、寛大な心でこれが宇宙がね。う冠が示す所の働きと見ると言う事です。そこに寛大な心が豊かな心が生まれる。
 そこにおかげもいよいよ寛大に豊かになってくる訳です。それでそれをほんなら、キャッチする心というのは和賀心です。和らぎ喜ぶいうならば有り難い、勿体ないの心です。所がその有難い勿体ないの心が、すぐに消えるのは、心行に心がけていないからだと言う事です。今日私はその和賀心という、その例えばまぁ和賀心とまでは行かんでも。有り難いなぁとか勿体ないなという、その心をね擁護するもの。それを消やさない修行を心行だと、今日は聞いて頂いた。
 成程そういう心行をするならば、おかげが頂く筈だと言う事も、段々分かってきます。お願をするおかげを頂く。成程見やすいけどもそれで、人間が幸福になると言う事ではない。私どもが天地のリズムに乗らせて頂ける。その天地のその道に出らせて貰う。神様と私どもとの間の調和が生み出されてくる所まで、信心を分からせて頂く所から。信心は愈々見やすいものじゃがと言う事になります。
 自動車の運転をする人が運転をし習うたら、見やすう自分の体の一部のように、自動車をいうならば、自由自在に動かすようなもんです。だから運転免許を取るまでが、言うなら難しいというなら難しいのです。そこでほんなら日々もう日々です。起きてくるその問題そのものが、信心の稽古の材料なんです。だからそれをどう頂くかと言う事が問題なんです。それを神様の御働きと見る。そこに達観があります。神の働きと見るだからそれが例えば、苦いものであろうが、臭いものであろうが。
 矢張りそれは受けなければならない。受ける事が本当だと言う事が分かります。それを受けて行くうちに、愈々寛大の寛の字です。愈々心が広う豊かになって参ります。そこに欲徳が段々ついて参ります。不思議なこっじゃあるなぁ。必要なものが必要の応じて現れてくる。まぁ何という不思議な世界。そういう世界をです。私は和賀心の世界。自然と人間が調和する世界。
 そういう世界に住んで、あなたもこういう世界がありますよと、お導きする時にほんなら、私も入れて下さいと言わない者は、決してないでしょう。そこに始めて人間と自然とが調和する社会が広がって行くと言う事になります。いうならば光臨の和は愈々広がって行くのです。愈々和賀心の時代が頂ける事になるのです。科学ではない医学ではないいろんな、もう今まで人間の幸せの。
 いろんな条件というですか、人間の幸せになって行く事のために様々な学問が生まれた。けれどもどれ一つでも人間の幸せと繋がるものはなかった。人間が人間の力で月の世界にでも行けるようなっても。学問では人間が幸せにならない事が分かった。そこでこれからは心の世界だと言う事になってきた。そこで、教祖金光大神が仰せられる、ただ心だけではいけない。
 その心が和らぎ喜びに一杯満ち溢れてこなければならない。そういう生き方を教祖金光大神は、見やすう説いておられる訳です。和賀心時代が、愈々金光教の信奉者だけではない。全世界に広がって行く。それを和賀心時代を作るという、合楽のいうならば信心のお互いの眼目。そういうおかげの頂けれる世界に縁を頂いた。その有難さを広げて行くのが、合楽示現活動に参画させて頂くと言う事。そこに合楽の世界。神も喜び氏子も喜ぶ世界が開けてくる。
 氏子の願いいや願い以上のおかげを、神様が用意準備しておられるのである。それを頂いてこそ、始めて本当のおかげという事が言えるわけです。愈々心行に取り組まなければなりません。本当にあの心行に取り組むとね。第一何時もにこにこしといてから、もの言わんで済むようになるです。本当にもう心がにこにこしとってから、がたがた言わんで済むようになったら、どんなに素晴らしい事か。
 想像しただけでも有難い事でしょうが。そういう世界に一つ住まわせて頂くおかげ。教団で言うておられる宣言。いわゆるこの宣言文をです。私どもは小動物とか植物と言った様な所に、持って行くのではなくて。私どもは自分の心にこれを頂いて行く修行をしなければなりません。天地の道理に基づく生き方を進め。自然の生命を重んじ。自然と人間が調和する世界を求めて、そして現わして行かなければなりません。
   どうぞ。